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大阪ステーションシティ
(大阪駅)の歴史

初代大阪駅

明治7(1874)年
5月11日開業

初代大阪駅は明治7(1874)年5月11日開業。我が国2番目の鉄道である大阪-神戸間の開通に合わせるためホーム以外は仮状態でのスタートだった。広い敷地に停車場本屋がポツンと建ち、名物だった駅前広場の築山庭園の姿はまだなく、客待ちの人力車が見られた。

駅本屋は木造レンガ貼りの洋風建築で、壁の四隅を隅石で飾り、切妻風屋根の破風に特徴的な紋章装飾が施されていた。小屋組みはキングポスト形式だったと言われている。この駅舎はとてもスマートで、いわゆる近世フランス式ゴシック風建築様式であった。「埋田」の地に忽然と現れた洋風建築は、当時としては特殊中の特殊建築であったと思われる。屋根瓦がパンのように見えたので「パン瓦」と呼ばれたそうで、この洋館駅舎はたちまち人気をさらって大阪随一の名所になった。初物食いの大阪人が見逃すはずはなく、弁当持参で見物に訪れる人が後を立たず、「梅田すてん所」の愛称で親しまれた。当時の図絵には中之島公園と並んで堂々と描かれており、その賑わいや熱気が伝わってくる。

建設予定地は当初堂島だった。鉄道工事には大量の資材が必要なため、水運の便を考慮したためと推測されるが、中心市街地で付近住民の反対運動もあり、最終的に市域外で土地の安い梅田曽根崎村、旧中央郵便局西側に変更された。梅田地区には墓地があり、駅を建設してからもなお、卒塔婆が見られたそうである。

第2代大阪駅

明治34(1901)年
7月1日開業

2代目駅舎は、明治29(1896)年に工事着工し、明治34(1901)年7月1日に竣工した。初代駅舎より約200m東に移動し、現在の大阪駅とほぼ同じ場所に位置することとなった。それに伴い駅前旅館や店舗も移転。今日の大阪駅前の前身が形づくられた。

初代大阪駅の駅前計画はまだ交通量が少ない時代であり、茶屋や築山を設けるなど庭園設備の趣があった。しかし2代目になると、人力車などの交通手段を前提とした広場となっている。広場東端には大阪郵便電信局梅田支局など公共施設も建てられ、新たな大阪の玄関口として整備が進んでいった。

駅本屋は、正面中央部分が2階建吹き抜けとなった石張りの豪壮なゴシック風建築で、初代同様、たちまち大阪中の人気を博し、日本銀行大阪支店、泉布観と並び「大阪の三名所」と称された。見物の人々は砂利の敷き詰められた駅前広場に腰をおろし「石の駅ができた」と眺め、改札口を「お厨子のようだ」とありがたがったというエピソードが伝えられている。写真には通行人以外に行商と思われる人々の姿が見られる。駅見物客や鉄道利用客を目当てにしたものであろう。ちなみに駅の構内販売も鉄道開通以来サービスが拡充され明治30年代には構内食堂の高級化が進んだ。大阪駅には明治44年に西洋料理と和洋酒を出すビアホール風レストランが開業。駅が本格的な社交場となる時代がやってきた。

第3代大阪駅

昭和15(1940)年
6月1日開業

大正時代に始まった第3代大阪駅改造計画は、単なる駅の改造でなく、駅前広場整備、区画整理、地下鉄建設、私鉄(阪急・阪神)ターミナル改造など、国・市・周辺自治体・私鉄・民間を巻き込んだ一大都市計画事業となった。第3代大阪駅は、当時最先端をいく旅客専門の高架駅として、華々しくオープンする予定だった。高架駅に遅れること6年、昭和15(1940)年6月に地平駅は営業を開始した。地平駅舎は5階建てで、2階までが駅設備。1階中央には24m×48mの広場が取られ、ここに出札があり、中央部は地上5階まで吹き抜けの大空間となっていた。当時としては東京駅や国会議事堂と肩を並べる大空間であった。

外観は当時最先端のインターナショナルスタイル。上層部は開催予定だったオリンピックに合わせてホテルとなる計画があった。中央部の吹抜両側にホテルが配置され、建設時は鉄骨まで建てられたが戦時体制下となり昭和18年10月ホテルの鉄骨は軍部の要請により供出され、駅機能のみの凸型の外観を呈することとなった。軍が「この鉄骨は質が非常によろしい」と褒めたが、関係者は複雑な胸中だったと言われている。この近代建築様式の駅舎は戦時体制と戦後の復興期、高度経済成長期を通じてその使命を全うし、昭和55年のアクティ大阪(現サウスゲートビルディング)建設ため取り壊された。前2代より長い40年間存続した駅となった。なお、駅としては取り壊されたが、駅舎の一部は大阪環状線の高架橋となり、現在も形を変えて残っている。

第4代大阪駅

昭和54(1979)年
12月15日開業:北ビル
昭和58(1983)年
4月25日開業:アクティ大阪

第3代大阪駅の建設経緯もあり、戦後、社会情勢の落ち着きとともに、民間資本による大阪駅の改築申請やホテル計画の請願があったが却下され、また、昭和45年の万国博覧会を契機に民衆駅構想も生まれたが、機は熟さず見送られた。しかし、昭和46年の国鉄法改正により、国鉄自身による関連事業への投資が可能になり国鉄内部においても大阪駅改築に対する考え方が変化していった。これは、赤字対策の一環として、駅周辺の「用地の高度利用」により副業経営で収入を得ることが認められたものであった。

昭和40年代になると、大阪市の大阪駅前市街地開発事業がスタートし、周辺整備が進められる中で、地区中心に位置する大阪駅が低層で周辺との均衡を欠いており、大阪の玄関口にふさわしい「顔」と「機能」を持った近代的なターミナルに整備されることが、地元からも熱望された。実現への具体的動きは、昭和51年の「大阪駅ターミナル問題懇談会」の設置でようやく本格化。新駅のコンセプトもこの会を中心にまとめられていった。第4代大阪駅の建設は国鉄の赤字経営を背景に“業務施設機能と商業施設機能を併せ持つ”という方針が貫かれた。そのため、百貨店・ホテル・旅行サービス機能等を取り入れた地下4階・地上27階・延床面積13.6万㎡の総合ターミナルビル建設が中心事業となり、駅業務施設は高架北側に別棟(通称『北ビル』)として昭和54年に開業、続いて大阪ターミナルビル(愛称『アクティ大阪』)が昭和58年に竣工した。第3代大阪駅で計画されたターミナルホテル計画は、実に半世紀以上の時を経て、ようやく実現に至ったことになる。

第5代大阪駅(現在)
大阪ステーションシティ

  • 平成23年(2011)3月16日開業
    サウスゲートビルディング(SGB)
  • 平成23年(2011)4月11日開業
    橋上駅舎(連絡橋口)
  • 平成23年(2011)5月4日開業
    ノースゲートビルディング(NGB)

開発・開業の経緯

開発前の大阪駅周辺(2007年ごろ)

駅とまちがひとつに。
感動と発見にあふれた、
新しい大阪駅の創造。

都心に残された最後の一等地といわれてきた、大阪駅北地区。平成11年頃から、総面積24ヘクタールの土地を、産・官・学が連携して開発を進め、関西の都市再生の起爆剤にしようという気運が盛り上がりを見せてきました。

国際コンセプトコンペの結果などを踏まえ、平成15年10月には、水と緑を取り入れた国際都市を目指すなどまちづくりの方向性を示した「大阪駅北地区全体構想」が発表されました。さらに、平成16年3月には、「大阪駅北地区まちづくり推進協議会」が発足し、7月には、全体構想を肉付けした形で「大阪駅北地区まちづくり基本計画」が策定されました。現在、東側の先行開発区域において、土地区画整理事業が行われ、開発事業コンペも実施され、新しい街づくりが着実に進められています。

JR西日本でも、このようなまちづくりの動きに合わせて、大阪駅の改良の検討を進め、平成15年12月に「大阪駅改良・新北ビル開発計画」を発表するにいたりました。また、平成17年には「大阪駅南側広場整備・アクティ大阪増築」計画を発表しています。

今回のプロジェクトでは、駅整備とまちづくりの視点に立って、「抜本的な駅改良」「広場・通路の整備」「新北ビルの開発」「アクティ大阪増築」を4つの柱としています。「駅とまちがひとつに。感動と発見にあふれた、新しい大阪駅の創造」を目指します。

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